この天気で昨日から家に引きこもり。
ここ2週間くらいの新聞に目を通していたら、MVP Clubの名コーチ、ステファン・フランシスに関する面白い記事をいくつか発見。
NHKのオリンピック特番「ミラクルボディー」でアサファに「走るのがお前の仕事だ」と叱りつけていた、小太りの男。
彼が熱烈指導する同クラブ所属の選手から10人がオリンピックに参加し、そのうち5人が、金メダルを取った。
「オレたちの元に集まって来たのは、負け犬ばかりだ。そいつらに陸上を教えるのが好きなんだ」と豪語する44歳が、世界屈指のコーチと呼ばれるまでの半生。
ジャマイカン・スパイスの効いた、プロジェクトX的ストーリー。
トレーニング・コンサルタントだった父の影響からか、陸上指導を始めたのは西インド大学一年生の時。大学卒業後はキングストンのWolmers Boy's Schoolで、高校生を相手に指導。彼自身は、まったくの陸上未経験者だったが、スポーツを誰よりも愛し、コーチングの本を図書館で読んだり、海外から購入することで独自の陸上理論を構築していく。
90年代前半にはコーチ業をやめてミシガン大学で会計学のMBA取得。(脱線するけど、この前のクール・ランニングのストークス氏もそうだけど、けっこう指導者ってインテリなんだよね)帰国後は、外資の会計事務所でバリバリのキャリアに励むも、どうしても陸上のコーチとしての夢を捨てきれずに、結局退社。
そんな時に出会ったのが、まだ芽が出る前のハードル選手、ブリジット・フォスター・ヒルトン。国内選手権に出場するべく帰国していた彼女と会った時に「君には才能がある」「世界レベルにいける」と声をかけた。
「そんな言葉かけられたの生まれて初めてだった」「すごい嬉しかった」とブリジットは回想する。
秋田県ばかりの小さい島に才能ある選手が溢れんばかりにいるこの国。
当時のブリジットはあくまでも「それなり」の選手で、チャンプ(国体)で勝った経験もなく、当時はまったくの無名だった。
「アスリートの多くは18か19でこの国を去り、アメリカ人になっちまう」「彼らにとって、ジャマイカは中間地点に過ぎない」とフランシスは嘆くが、ブリジットは彼を信じて、この国に舞い戻り、二人三脚(いや、やっぱ四脚か!?)での練習が99年のMVP Track & Field Club発足とともに始まった。
だが、”それなり”の選手と”脱サラ”のコーチ、試行錯誤しながらもやっぱりそう簡単に成功はつかめない。
スポンサーもつかずに、最初の一年間はジャマイカ工科大学で教えながらも、まったくのボランティアだった。
本当に金が続かない。
「オレは車を売ったよ。信用がなくて、クレジットカードも作れなかった。ブリジットやほかの選手が腹を空かせない事を優先した。彼らのために何ができるか、本当に考えてた」
その後ブリジットはコモンウェールズの大会に出場し、まずまずの結果を出したことで、スポンサーもつくようになったが、今度は彼女自身が病気になってしまう。
2001年は彼にとって、最悪の年だった。
スポンサーも彼女の病とともにストップ。
運もなく、金もなく、ついには弱気になったフランシス。
ブリジットを前に、普段は辛辣で有名な彼の口から、現実逃避からか、こんな言葉が飛び出す。
「移住しなくちゃいけないかもしれない」
こんなボヤキに対し、教え子は答えた。
「”私たち”はどこに行くの?」
彼女の揺るがないコーチへの信頼。もう一度、挑戦することへの決心がついた。
捨てる神あれば、拾う神あり。
ジャマイカ工科大学がこの年、正式にコーチとして給料を払うことが決まった。
そして、運が向いて来た監督のもとに来る、彼の言うところの「負け犬」もあり。
この頃、これまた無名だったアサファ・パウエルが、同クラブに入る。
チャンプでの成績は一度決勝まで行った事があるだけ。優勝経験はなし。
「負け犬を強くするのが好きなんだ」との言葉通り、アサファはメキメキその才能を開花させていく。
「アサファは負け犬で、他に行くあてがなかったからここに来た」と監督は公言するが、海外からオファーがあったと報道するメディアもあるので、真相は分からない。
ただ、フランシスに魅せられて、ジャマイカに残ったのは間違いなさそうだ。
数年の練習ののち、アサファはついに2005年、当時の世界記録、9秒77を打ち立てた。
無名だった彼の才能を見いだした、とフランシスを評価するメディアに、こう反論する。
「アサファが10秒3で走っていた時、誰も彼に才能があると言わなかった。世界記録を作り出した今では、みんな彼には才能があると言う」
「ポイントは才能じゃない、教育のシステムなんだ」
アサファの成功ののち、大手インターネットプロバイダーのCable & Wirelessや国内大手の銀行、National Commercial Bankがスポンサーシップに名乗りをあげ、このクラブの運営はようやく軌道に乗った。
”負け犬の成功”で世界中の注目を浴びたこのクラブには、チャンプで優勝経験のあるメライン・ウォーカーや、マイケル・フラッターなどのいわゆる勝ち組も集うことになる。
そして、
そして、
今回の北京オリンピック。
10人参加して、結果は以下の通り。
100m女子 金メダル
シェリアン・フレーザー
400m女子ハードル 金メダル
メライン・ウォーカー
400mリレー 金メダル
アサファ・パウエル
マイケル・フラッター
ネスタ・カーター
女子100m 銀メダル
シェロン・シンプソン
女子400m 銀メダル
シェリカ・ウィリアムス
女子 高飛び 銀メダル
ジャミネ・メイソン
なお第一世代である、ブリジットの結果は100mハードルを12秒66、6位。33才の遅咲きのアスリートは今大会で代表からの引退も示唆している。
今回の躍進の源流を作った彼女もリスペクトされるべき。
そして、この日記の主役、フランシスは北京オリンピックで何してたかと言うと、直前強化合宿の練習方針に関して、ジャマイカオリンピック協会とずっと揉めてた。華々しい活躍の舞台裏では、我の強いフランシスと協会が大喧嘩。あんまり報道されてなかったけど、チームワークが必要なリレーの練習を同クラブ所属の選手たちだけが、師匠の指示のもとで2日間ボイコットする異常事態に。
気難しくて、取材嫌いで、文句ばかり言っているが、結果がすべてを物語っている。
まだ無名の選手を育て上げることに関しては右にも、左にも出る者がいない。
誰かに似てるなと思ったら、ヤクルト時代のノムさんに似ているのかもね。